「花に嵐の例えもあるさ さよならだけが人生だ」 (寺山修二:天井桟敷主宰者・没)
2023.05.25
■今日のバイブレーション■
「花に嵐の例えもあるさ さよならだけが人生だ」
(寺山修二:天井桟敷主宰者・没)
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●今日のバイブレーションから思い浮かんだ事●
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この言葉は実は中国の古典の中にでてくる言葉であると、寺山修二が言っ
ていた記憶がある。だが何しろ雑多な蔵書に囲まれているため、いざという
ときに、それが記されていた書物を探し出す事が自宅ではできない。
どうやら、某日、事務所で手にしていた記憶がかすかに甦ってくる
かといって、まさしくこの春の嵐の吹き荒れる今夜、事務所に出かけてゆく
気にはさらさらなれない。なんたってコンサートの前日なのだから、小石に
でも躓いて、足でも捻挫したらどうする。まあいいっかで、想い出しながら
の記述である事をお許し願いたい。
要は、この詞は春の風情を歌ったものであろうと思う。春爛漫にはなるが
いずれ、きっと嵐を経験するその時期がくる、必ず来る。
それを「さよならだけが人生だ」という諦観で静かに眺めるほど、まだ僕は
育ちきっていない。
1983年48歳の早すぎる寺山修二の死を、毎年この時期に思い出すの
は、早熟であったことを忍ばせる彼の生き様を、この言葉と重ねてみる気持
ちが動き出すのが、僕にとっての今の季節なのだろう。
そして、彼の編集した本で、折に触れ手をのばすのが、上述の言葉が掲載
されていた「旅の詩集」という本である。
その本は、寺山の記述によると、エーリッヒ・ケストナーという作家の手
になる「人生処方詩集」をヒントにしたと書かれてあったような気がする。
ケストナーが「人生の折々に感じる戸惑いや悲しみに出会ったときに、この
詩集を開いてください・・きっと貴方の探している答えが見つかりますよ」
、と述べていたことをもじり、寺山修二はこの「旅の詩集」を人生の時刻表
に、なぞらえて編集したと述べていた。
寺山修二の詩ではなく、近代、現代の詩人の作品から歌謡曲の歌詞までを
彼の「人生における旅」という視点で集めた著作である。
青春のさすらいの詩がある。別離の詩がある。家族旅行や恋人との旅とい
ったいわゆる幸せいっぱいの章はなかったような気がするが気のせいか。
音楽セラピーの中でも、実は、重要な位置を占めているのが、センチメン
タルな抒情歌であることを思いだした。そばで一緒に泣いてあげること。
ここが出発であることを寺山修二はちゃんと知っていた。